1950-04-03 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第17号
○上村証人 仕事は、反動分子だけが集まつておる懲罰大隊というものは、ムーリンの二百十三分所の隣の分所、二百十三分所を普通懲罰大隊と言つておつた。しかしほんとうの二百十三分所には普通の人たちがおつた。その隣に初めのうちはさくを設けたりして厳重に見張りもつけておつた。そうして食事とかその他一切のものが別々に支給されておつた。私たちの入つておつたところもそういうものは別々になつておつた。
○上村証人 仕事は、反動分子だけが集まつておる懲罰大隊というものは、ムーリンの二百十三分所の隣の分所、二百十三分所を普通懲罰大隊と言つておつた。しかしほんとうの二百十三分所には普通の人たちがおつた。その隣に初めのうちはさくを設けたりして厳重に見張りもつけておつた。そうして食事とかその他一切のものが別々に支給されておつた。私たちの入つておつたところもそういうものは別々になつておつた。
地区によつて懲罰大隊と言つて最後まで呼んでいるところもありましたし、また強制労働收容所という言葉を使つておるところもある。後には懲罰大隊という言葉が妥当でないというので、強制労働收容所と言つたり、またその言葉自体も妥当ではないというので、遅れた分子の收容所とか、あるいは特殊收容所とか、いろいろな名目を使つておりました。
○鍛冶委員長 懲罰大隊はどういうことをするものなのですか。
それが第一期であり、第二期は、いわゆる民主グループと名前をかえて、收容所の将校全部をいわゆる行政面においてやりにくい、あるいは思想的にも民主運動の中に入れてはだめになると目される将校は、全部よそのいわゆる懲罰大隊といいますか、そういつたところに全部将校は集められた。
○吉田証人 いわゆる反軍闘争の過程において将校がいわゆるイデオロギーに倒れ、そして懲罰大隊に皆特つて行かれた。そのあとは一等兵の大隊長が天下をとる。下士官が收容所の天下をとる。
そのために同年の七月に、自分は憲兵隊に通告されて、ムーリン地区の二百十三分所に隣接するところの懲罰大隊に送られたのであります。そのときに送られた者は、大体民主運動に参加しておる者です。右翼社会民主主義者と称せられるような人たちも来ておつた。又いろいろな点で反動分子と見なされて来た者もあつた。
これが第二グループ、第三グループは、ただ收容所を追放して、将校懲罰大隊に入れた、こういうのであります。勿論第一級の我々は日本人捕虜収容所の中にありましても、特別に又そこに小さい二重柵を設けまして、そうしていわゆるストラフナヤッオーナー、懲罰隊というものによつて収容されたのであります。当時我々は二十八名でございました。
但し昭和二十一年以降においては将校の大多数のものがいわゆる懲罰大隊に送られました。懲罰大隊において一般の兵隊以上に酷使されておりました。